相差のいわれ
渚の広い砂浜が広がっている土地であったため、”大砂津(おうさつ)” ”大砂洲(おおさす)”呼ばれていたものが変化したという説や、相差氏という有力者がこの地方一帯を治めていたためそう呼ばれるようになったという説もあります。
神鳳抄という書物には”相佐須(おうさす)”とも記されており、 貞治5年(1366年)11月以後の文書には現在の”相差”へと改められており、現在の呼び方はこの頃定着したものと考えられます。
海女の仕事と生活
海女の服装
海女の獲物の中心はアワビとサザエです。他にトコブシ・イワガキなどの貝類、アラメ・テングサ・ヒジキなどの海藻類、そのほか、ウニ・ナマコ・タコ・イセエビなども獲ります。
海女の獲物
海女の服装は大正時代までは上半身半裸が普通でしたが、それ以降は磯着と呼ばれる白木綿の衣装をまとうようになりました。近年では冷たい海中でも長時間耐えられるウェットスーツの着用が一般的です。
鯨石と観音様
鯨崎の白浜側の海岸にある、干潮の時にわずかに姿を現す「鯨石」と呼ばれる岩があります。
奈良時代の天平勝宝の頃(749~57)浜の平という者が浜辺を歩いていると、1寸8分の黄金の観音像が鯨の背に乗って現れ、まばゆい光を放っており、男が観音像拾い上げると鯨はたちまち石になってしまいました。 像を持ち帰り祀っていたところ、夢に観世音が現れて「青山へ行きたい」と告げるので青峰山正福寺(松尾)に納め、寺の本尊としました。
男はその後青山の姓を名のって相差に住みました。 現在でも相差にある青山家は、青峰寺とは特別な関係にあります。 寺の本尊の青山観音は胎籠りとなっており、ご開帳は50年に一度となっています。
駆逐艦「春雨」の救助
日本海々戦にも参加した春雨型駆逐艦”春雨”は、明治44年11月24日の夜中、大しけに遭い菅崎沖の三角暗礁に乗り上げ沈没しました。 事故を聞いた相差の人々は荒れる海の中総出で水兵の救助に当たり、乗組員8名の命を救ったのです。自らを危険にさらしてまで人命救助に向かった相差の人々の心意気は当時新聞等でも話題になりました。
菅崎園地には、この時の思いや願いを込めて建てられた「春雨殉難記念碑」があります。 命を落とした44名の乗組員の死を悼むとともに、海の安全を祈り、未来への誓いとする活動は相差の人々によって現在でも受け継がれています。
平成23年、殉難100年を迎えるにあたって、旧海軍駆逐艦「春雨」が殉難した実話を元に、春雨艦遭難和賛を基に制作された追想歌「さらば星になれ」を地元在住歌手の鳳城朋美さんに歌っていただくことになりました。
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